◎現象→無のプロセスへの疑義
現実は、現象→無→現象→無の繰り返しで構成されているが、現象→無のプロセスにおいて、現象→宇宙全体→無と、当然になるのではないかと考えていたところ、最初倶舎論では、『宇宙全体』の部分がなくていきなり無になると見ていたようだ。この欠点を叩かれたことで、後に阿頼耶識という中間的なものを現象と無の間に創設した由。
インドの伝統では、現象→宇宙全体→無とは、個別ボディ(第一身体~第五身体)→宇宙全体(アートマン)→無(ニルヴァーナ)というように進むはずなので、当時いきなり『現象→無』と進むのはおかしいという反論があった由。

質問:世親(天親)『倶舎論』および唯識思想において、人間が「飛び飛びの現実」を「連続したもの」と誤認する理由は、『倶舎論』のどこに書いてあるのでしょうか? 出典を教えて下さい。
以下Gemini。
『『倶舎論(阿毘達磨倶舎論)』およびその背景にある説一切有部や唯識思想において、人間が「瞬間ごとに滅滅していく飛び飛びの現実(刹那滅)」を、あたかも「持続して連続している一つのもの(相続)」と誤認してしまうメカニズムは、主に『倶舎論』巻第一(界品)および巻第四(業品・随眠品に関連する箇所)に理論的基礎が説かれています。
具体的にどの部分にどのように書かれているのか、仏教専門用語の解説を交えながら出典を詳しく紐解いていきましょう。
- 核心となる出典:『倶舎論』巻第一(界品)
もっとも直接的に「不連続なものを連続したものと誤認する(錯覚する)」理由が説かれているのは、『倶舎論』巻第一(大正蔵29巻、1c〜2a付近)です。
ここでは、五蘊(人間の心身を構成する5つの要素)のうち、なぜ「色(物質・肉体)」や「受・想・行・識(心と言葉)」が、実際には一瞬で消え去るもの(刹那滅)であるにもかかわらず、あたかも一つの固定的な「我(ソウル、不変の実体)」として見えてしまうのかが議論されています。
該当する論理とメカニズム
世親はここで、以下のような「灯火の比喩」を用いて説明しています。
「灯火(あるいは川の流れ)の如し」
灯火の炎は、一瞬一瞬、古い炎が消えて新しい炎が生まれるという「不連続なプロセス(刹那滅)」を繰り返しています。 しかし、その変化があまりにも高速であり、かつ前後の状態が極めて似通って連続して生じる(等無間・類似相続)ため、愚者(凡夫)はそれを「同一の火がずっと燃え続けている」と誤認します。
『倶舎論』のテキスト(漢訳・玄奘訳)では、この誤認のプロセスを「相似の相続に由るが故に、一つの想を起す(相似相続由起一想)」と表現しています。
- 相似(そうじ): 前の瞬間(前刹那)と、次の瞬間(後刹那)の現象が極めて似ていること。
- 相続(そうぞく): 途切れることなく、原因と結果(因果)の連鎖として次々に生起すること。
- 一想(いっそう): 「これはずっと同じ一つのものである」という単一性・持続性の誤った認識(錯覚)。
つまり、「ものすごいスピードで、似たような『点』が連続して生滅しているため、人間の貧弱な認識力ではそれを滑らかな『線』として捉えてしまう」というのが、『倶舎論』が提示する誤認の直接的な理由です。
- 理論的裏付け:『倶舎論』巻第四(随眠品など)における「刹那滅」
では、なぜ現実が「飛び飛び」なのかという前提については、『倶舎論』巻第四などで詳しく議論される「刹那滅(せつなめつ)」の理論にあります。
有為法(因縁によって作られたこの世のすべての現象)は、生じた瞬間に消滅します。
世親は、物質や心が「存在する」ということは、次の瞬間にはすでに「別のものに置き換わっている」ことだと論じます。 この刹那滅のメカニズムを正しく観察できない(無明:根本的な無知)ために、私たちは飛び飛びの映画のフィルム(静止画の連続)を、動いている現実の動画として脳内で勝手に合成してしまっているのです。
- 唯識思想(『唯識二十論』『成唯識論』)への発展
世親が後に大成させた「唯識思想」においては、この『倶舎論』の分析がさらに深められます。
『倶舎論』の段階(説一切有部)では、「外の世界(客観世界)に、極微(ごくみ:最小の物質単位)が刹那滅しながら存在している」と考えられていました。 しかし、唯識(世親の『唯識二十論』や、後の『成唯識論』)にいたると、以下のようにアップデートされます。
- 外の世界の「飛び飛びの物質」すら存在しない。
- 飛び飛びで生滅しているのは、私たちの心の一番奥底にある「阿頼耶識(あらやしき)」から噴き出す、認識の種子(しゅじ)である。
- 阿頼耶識が「一刹那ごとに生滅(刹那生滅)」しながら、主観(見分)と客観(相分)を投影し続けている。
- これを私たちの表層的な意識(意識や末那識)が、「不変の自己(我)」や「固定的な外界の対象(法)」として凝固させ、連続したものとして執着(我執・法執)してしまう。
唯識においては、「飛び飛びの現実を連続したものと誤認する」ことそのものが、私たちが苦しみ(輪廻)から抜け出せない根本原因(遍計所執性:へんげしょしゅうしょう)であると位置づけられています。』